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暑気払いに、怖い話を。

「日本三大怨霊」をご存知でしょうか。

日本の歴史の有名人で、
生前にあまりに激しい恨みを残して死んだために、
怨霊となって災いを起こす、、とされている人達です。

平将門
菅原道真
崇徳天皇

の三人がノミネートされているわけです。

首塚で有名な将門さんや、雷神・道真さんはちょっと有名なので、
崇徳天皇の生涯と、その伝説について
調べてみます。

 

崇徳天皇は1119年に鳥羽天皇と藤原璋子の第一皇子として生まれました。

平安の貴族社会から、武士の台頭が起きようとしていた頃ですね。

第一皇子として生まれたのに、
父の鳥羽天皇には疎んぜられていました。

(一説によると、実の父は鳥羽天皇ではなく、
鳥羽天皇の祖父にあたる白河上皇が藤原璋子と密通してできたのが
崇徳天皇なのだとか。。『古事記』より)

鳥羽天皇が上皇になるのに従って、
崇徳天皇は5歳にして天皇となります。
(このとき、実権を握っていたのは白河法皇でした。)

それが、
白河法皇が死去すると、
権限は鳥羽上皇に移り、
崇徳天皇に譲位を迫ります。

鳥羽上皇が寵愛していた藤原得子の子供の近衛天皇を擁立したのです。

しかも、
この近衛天皇が、崇徳上皇(譲位して上皇になった)の養子になれば
よかったのですが、(崇徳上皇として力を振るえる)
義理の弟になってしまいました。

崇徳さんは、「天皇の兄」という
院政を行うのに不利な立場になってしまいました。

こうして崇徳上皇は「実権のない上皇」となってしまい、
和歌の世界に没頭し始めます。


そうこうしていると、
あまり体の丈夫でなかった近衛天皇が崩御してしまいます。

ここぞとばかりに、自分の息子を天皇にしようとするのですが、

鳥羽上皇や、いろんなお偉いさんの力で望みかなわず、

代わりに「後白河天皇」が即位しました。


この頃、摂関家(藤原家)でも、
跡継ぎ問題でごたごたが起きています。

鳥羽上皇がいろいろともみ消していたので、
なんとか体裁は取り繕えていただけでした。


そう。
全ては鳥羽上皇がいたために
混沌としていた派閥争いが押さえられていたのです。


それが、1156年、鳥羽法皇が病に倒れ、
7月2日に崩御したことで、事件は起こります。

「鳥羽法皇に疎外されていた連中が、
この機会に謀反を起こすのではないか?」
という噂が誰からともなく流れ始めます。

たまったもんじゃないのが、
崇徳上皇など、「謀反の噂を流された」人達です。

実際に謀反を計画していたかどうかはわかりませんが、
疑いをかけられれば、それだけで捕まってしまうのに十分です。


事実、鳥羽法皇側の後白河天皇や摂関家は兵を集め、
先制攻撃をかけてきます。


それならば、、と、
どうせ捕まるのならば、こちらも武装蜂起しよう!と
側近の藤原教長や、摂関家の藤原頼長らと立ち上がります。

崇徳上皇方と後白河天皇方と、
朝廷を二分して武力衝突した政変、
「保元の乱」です。


しかし、悲しいかな、
たよりにしていた平清盛には
「負ける方にはつかない!」と断られ、

白河殿に立てこもり、善戦したものの、
夜襲をうけ、火を放たれ、敗戦となります。

崇徳天皇は一度逃亡しますが、
後日、仁和寺に出頭し、

四国の讃岐へと島流しにされます。

天皇・上皇が島流しにされたのは、実に400年ぶりのことでした。

島流しにあったまま、京都に二度と戻ることはできず、
8年後の1164年、その生涯を閉じることとなります。


讃岐での軟禁生活では、仏教に深く傾倒し、
極楽往生を願っていたそうです。

『今鏡』によると、
寂しい生活で悲しさのあまり、病気も年々重くなっていますが、
「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」
という歌のように、
都への悲嘆の感情はあっても、自らを配流した物への怒りや恨みは
特に記述されていないようです。

一方、『保元物語』になると、
極楽往生を願い五部大乗経の写本をつくり、
自己の反省と、戦死者の供養を込めて
完成した写本を京の寺に納めてほしい、と朝廷に差し出します。

ところが、後白河が「呪いを込めているかもしれない」という
もっともな理由で送り返したのに腹をたて、
呪いをかけて、生きながらに天狗になったとされています。


崇徳が崩御した当時は、
とくに気にとめられていなかったそうなのですが、

しばらくして平家が権力を握り、
安元の大火、延暦寺の強訴、木曾義仲の台頭などで
社会の安定が崩れたり、
後白河や、崇徳天皇の政敵の身内が次々と死去し、
清盛が熱病で苦しみ、平家が滅亡し、
後鳥羽上皇が隠岐に流され・・・
「これは崇徳のたたりだ」
という話になりました。

その怨霊を鎮めるため、
ゆかりのある場所に神社をたてて(白峯神宮など)
神様として奉ることになったそうです。


ただ、南北朝の動乱など、
どれほど時代が移り変わっても、
国家転覆が絡んだ事件は
崇徳天皇の怨念説が流れるほど、

崇徳天皇=魔界最強の怨霊という位置づけになっているそうです。
(『太平記』で、当時の魔界の王とされています)

現代になっても、
明治天皇の即位の際や
昭和天皇が東京オリンピックの開催のときに、
讃岐に支社を使わせて奉り事をしているそうです。

怨霊になった天皇


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